Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://nishimuta62.blog114.fc2.com/tb.php/47-25f342bc

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

死を想う

人間が命をつないでいくために、食べるために、家畜を殺すという行為は仕方がないことだと思う。だけど病気になったからといって大量に処分してしまうという行為には割り切れないものを感じてしまう。次の新聞記事を読んで僕はそんなことを思った。

鳥インフル感染疑いのウズラ処分 愛知県知事、防疫強化を指示

 愛知県豊橋市のウズラ農場で高病原性の鳥インフルエンザが発生した問題で、愛知県は28日、感染の恐れのあるウズラの処分や周辺農場の立ち入り検査を始めた。神田真秋知事は同日午前、現地を視察し、担当者に防疫対策の強化を指示した。発生が確認された同市南大清水町の農場では、飼育されている約32万羽のうち、ウイルスが検出されたウズラと同じ敷地内で飼育されていたウズラ約26万羽を順次処分し、埋却する。(共同)



生きていくため、食べるために動物は日々他の命を殺めている。かわいそうだと思って他者の命を殺めず、何も食べなければ飢え死にしてしまう。食べる対象が動物か植物かという違いはあれど本質は変わらない。今回の行為が人間のエゴだけで行われているように感じてしまうのは、生きるための本能的な行為から逸脱しているからなのだろう。他の動物の場合、よっぽど身の危険を感じたりしなければそんなことはしない。

人間という種が力によって地球を制している世の中なのだから、ウズラを大量に殺してしまうことはウズラが言葉をしゃべり抗議する場を与えられない限り、正当化されるだろう。

そもそも人間の歴史を振り返れば似たようなことはいくらでもやっている。かつてのソ連をはじめとして、独裁者は政敵を次々と抹殺してしまっているし、ナチスはユダヤ人やロマ(ジプシー)、障害者を大量に殺している。そうした殺人は殺した側が支配者であるときは当然のこととして社会的にみなされる。(黒人をアフリカからアメリカへと奴隷として連れて行き、こき使ったりしたのも、黒人のことを同等に思っていなかったからなわけで)。

あり得ないことだけれど、もしウズラが支配者になり、人間が家畜へと転落したとする。人間の間に伝染病が蔓延れば治療なんかせずに大量に処分されてしまうかもしれない。そのときウズラ社会は人間の「大量処分」を当たり前のこととしてとらえていることだろう。

……そういうのは僕は嫌だ。僕がその立場になったとしたら悔やんでも悔やみきれない。

人間が地球を支配している以上、人間に都合のいい論理によって世界はルールが作られるのは当たり前のことだ。命をつないでいくため、家畜を利用するのも当然のことだと思う。

だけど、人間が命をつなぐため、食べるために命を奪うとき、「命を奪う」ということについて意識するべきではないか。僕もそうなのだけど、現代人は自分の食べ物を得るために命を奪う機会なんてないのだから、他者の命を奪って自分は生きているなんてことはなかなか実感できない。だからこそ、食べるときぐらいは「いただきます」という言葉を忘れないようにしたいって思う。

話は脱線した。僕が言いたいのは、食べる目的以外での殺生を人間がしてしまうことは許されるのかってことだ。確かに今は地球上の支配者かもしれないけど、所詮、人間は地球に存在する生き物の一種でしかすぎないのだ。そんなに人間様は偉い生き物なのだろうか。

今回の件で連想したのは保健所での犬猫の処分のことである。衛生のために捨て猫や捨て犬を見えないところで処分したりするってことについてだ。あと、こないだの猿の大量処分(滋賀・甲賀市がサル130頭処分 頭数倍増、被害相次ぐ)についても連想した。今回の件や犬猫や野生猿の処分に納得ができないのは、徹底はしていないけど、僕の心の奥底に「命に貴賤なし」という感覚が根付いているからなのだろう。

街中に野良犬や野良猫が増えようと猿が悪さをしようと、はたまた鳥インフルエンザにかかったウズラを運悪く食べてしまっても、ぼくは仕方がないと思う。だけども社会の大勢はそうは考えないのだろう。

処分するという方針は今後も変わらないのだろう。だけどせめて命を殺めてしまったことに対しての供養ぐらいはすべきなんじゃないだろうか。戦争や政争、害虫駆除や病気根絶など、食べる目的以外でも何かと理由をつけて命を奪ってしまう理屈を捏ねてしまえる知恵を人間は持っている。と同時に人間は葬式をやったり、墓を建てたり、そこまでしなくとも祈ってみたり。死に対して行う風習(といったらいいのかな)を人間は持っているのだ。ウズラにしても、犬猫にしても猿にしても、人間の都合で殺めてしまった生き物に対しては、何らかの手段を用いて供養すべきなんじゃないか。

とにかく。戦争であろうが、今回のような処分であろうが、死というものをもっとしっかり見つめるべきだと思う。人間の都合だけで殺される不条理を僕も含めてだけど、死というものをなるべく多くの人が心に刻みつけるべきなんじゃないか。今の社会は死というものがあまりに隠蔽されすぎている。

「おくりびと」って映画が流行るのは死というものが世の中から隠蔽されすぎていることに対しての裏返しなんだろうな。でなかったらこんなに流行るはずがない。

それにしても。
ホワイトハウスの犬釧路のラッコなんかと、処分される動物の扱いの差にはむなしくなる。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://nishimuta62.blog114.fc2.com/tb.php/47-25f342bc

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

PEREZVON(ペレズヴォン)

Author:PEREZVON(ペレズヴォン)
西牟田靖(ニシムタ・ヤスシ)
1970年大阪府生まれ。神戸学院大学法学部卒業後、フリーライターになる。近年は旅・現場・実感にこだわるノンフィクション作品を発表し続けている。著書に『僕の見た「大日本帝国」』(2005)、『誰も国境を知らない』(2008)など。NPS(Nikon Professional Services)会員。
****************
近年、ノンフィクションライターと見なされることの多い西牟田靖のブログ。手間をいとわず、自分の好奇心に忠実な仕事をしていきます。

Twitter

 

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。