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即興で書いてみました。

芥川賞候補作である「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」に感化され?、即興で小説のようなものを走り書きしてみた。執筆時間、約30分です。
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「21世紀のスキツォイド・マン」
翌日の発表会に向けて、キング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」の歌詞を覚えなくちゃならない。お披露目は山のなかの小さな旅館。一人ではなく、男二人で。僕は相方と、なぜか浴衣姿で、ネタ合わせするみたいな感じで、練習に励んだ。
相方は言う。
「これ英語じゃなくて日本語のほうがうけるんと違うか」
それに対して僕は
「いやいや。やっぱ英語じゃないと。タイトルが「21世紀のスキツォイド・マン」ってかわるらしいし、べたに精神異常者とか訳して歌ったらまずいやろ。それにリズムに乗らんし」と抗弁する。すると、相方は突然、「なんやと」と声を荒げ、紙の棒を浴衣の合わせ目から取り出した。
「そんな意気地なしやったんか。気合いをみせらなあかんで。だからぬいでもらうで」
「なんやなんやなんでぬがなあかんねん」
相方は浴衣に手をかけ、僕の上半身を露出させた。
「これなんやねん。どういうことや」
僕の抗議はあえて無視し、おもむろに紙の棒を胸に押し当ててきた。
「乳首ドリルやめんかい」
そう僕が言うと、つま先、顎と連続攻撃。さらには脇を叩いてきた。
殴られた悔しさで僕はうずくまり、地面をたたきながら、「ウォー」と叫ぶようにして泣いてしまった。
「将軍さまー、なぜ亡くなられたんですか。こんな理不尽なことはありません! アイゴー」
とここで目が覚めた。脇やつま先がジーンと痛い。
布団は全体がじっとりと濡れていた。大人用のトレッピーを股間に装着し忘れて失禁したのか。それとも涙なのか。汗なのか。いずれにせよ、舐めるとしょっぱかった。(了)

カメラを売る

2008年の年末、妻とエチオピアを旅行した。そのときに使いまくったのがD700と24-70mmF2.8EDのセットだった。唇に皿をはめているムルシ族やラリベラの岩窟教会はすべてこれで撮った。ケニアとの国境近くでキャンプしたときに見た満天の星空をスローシャッターで撮ったのもこのセットだった。あまりのでかさと重さからその後、次第に使わなくなっていったが、娘が生まれると、再び使い出し、ときどき持ち出しては撮った。娘を撮る機会はいまやない。

そのセットを夕方、ストロボとともに売った。査定しているとき、店員は言った。
「かなりあちこち持ち出されたんですね」
「いえそうでもないですよ。あっ、初期はけっこう持ち出しました。アフリカに行ったときや尖閣諸島なんかもこれで撮りました。だけどいいんです。書く仕事を優先したいんで」
店員は僕の「一人語り」に「そうでしたか」と付き合ってくれた。

「ホコリが入って曇ってるのでちょっとお安くなってしまいました」
それでも査定額は17万円あまり。
それを元手に半分ぐらいの大きさのミラーレスのボディとレンズ二本、ストロボを買った。

新しいカメラに入れ替えたことで気分が一新され、心が浮き立つかと思った。しかし実際は逆だった。家に帰った後、気分がどんよりと落ち込んでいった。

2時間しか寝ておらず、その疲れのためなのかもしれない。そう思い、夕食も食べずに、しばらく寝てみた。それでよくなるかと思ったら、そうでもない。頭を休めたのに、気分は落ち込んだまま。
「このまま物書きをやっててもお先真っ暗だ」とかそんな心の声ばかりが聞こえてくる。

長い間、防湿ケースの肥やしになっており、換金しなきゃと、ここ数年ずっと思っていた。だけどこうして手放してみると、思い出がこもったカメラだったんだなと、改めて気付かされた。

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3、4年前。同じカメラ屋にフィルムカメラを売りに行った帰り、急に涙があふれ出し、慌ててとってかえしたことがある。カメラを売ってこんなに動揺したのはそのとき以来のこと。そのときもフジヤカメラを利用したのだった。

思い出のこもったカメラは今後もフジヤカメラで売ることにしよう。査定しながら、僕のどうでもいい話に付き合ってくれた店員に感謝。

みなさま講演会においでください。

来週の木曜、つまり4/23に『本で床は抜けるのか』刊行記念トークイベントを開催します。
詳細は次の通りです。

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大量の本で部屋の床抜け危機に直面したノンフィクション作家・西牟田靖さんが、同じ問題をかかえた著名人を訪ね、それぞれの対処法を紹介した体験記『本で床は抜けるのか』。同書の刊行を記念して、西牟田さんのトークイベントを開催いたします。題して「大量の本とのつきあい方、教えます」。

仕事の必要から日々増え続け、生活空間を侵食する本。この重く、かさばる大量の本にほかの人はどう対処しているのか。トークのお相手に書評家で古本ライターの岡崎武志さんを迎え語りあっていただきます。2万冊の蔵書を処分するための悪戦苦闘を綴ったエッセイ集『蔵書の苦しみ』でも知られる岡崎さん。家族も巻き込んだ大問題におふたりはどう立ち向かったのか?ぜひご参加ください。

西牟田靖(にしむた・やすし)
1970年大阪府生まれ。ノンフィクション作家。アジア・太平洋諸島の元日本領土、北方領土や竹島といった国境の島々をテーマにした作品で知られている。著書に『〈日本國〉から来た日本人』『ニッポンの国境』『僕の見た「大日本帝国」』『ニッポンの穴紀行』『誰も国境を知らない』など。

岡崎武志(おかざき・たけし)
1957年大阪府生まれ。フリーライター、書評家。古本や古本屋についての文章を中心に、さまざまな媒体で執筆活動を展開中。別名「神保町系ライター」「均一小僧」。著書に『蔵書の苦しみ』『読書の腕前』『女子の古本屋』『貧乏は幸せのはじまり』など。

開催日時 4月23日(木) 19時~ (開場18時30分)
会場 芳林堂書店 高田馬場店 8階特設会場
参加方法
高田馬場店にて『本で床は抜けるのか』本の雑誌社刊 をお買い上げいただくか、参加費1000円をお支払ください。
定員 60名
問い合わせ先
芳林堂書店高田馬場店 03-3208-0241
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ところがです。
僕の告知不足なのか、それとも物書きとしての認知度や魅力が不足しているのか、全然、予約が入っていないというではないですか。昨日時点で、60人のキャパシティのうち、予約してくださったのは10人のみ。

まったく情けない限りです。
お相手をしてくださる岡崎さんや芳林堂書店、そして本の雑誌社のみなさまには大変申し訳ないです。

しかし、まだ諦めることが出来ません。あと一週間という時間が残っています。

そこで、皆様にお願いです。ぜひ、この講演会に足を運んでいただけないでしょうか。

「貧乏人のくせにたくさん本を買う資格なんてねえんだよバカ」と罵ったり、
「あいつの馬鹿面にしょんべんかけてやる」とか、
そんな目的で来てくださっても構いません。大歓迎です。

本で床が抜けそうになってお困りの方、相談に乗ります。僕の本を買えばさらに蔵書が増えて大変なことになるかも知れませんが、処方箋はきっちりお出しします。お誘い合わせの上、ぜひぜひお越しください。心のをこめてお話し、そしてサインさせて戴きます。

いよいよ発売

マガジン航で連載した「本で床は抜けるのか」が本になりました。
ひとつの作品として、読み通せるよう、
ウェブ連載時の文章に比べて、加筆修正をかなり加えています。

かなり読みやすくなりましたし、新しい章を加えたりもしています。

ウェブ連載バージョンを読んでいた方も、まだ読んでいない方も、
一読の価値があると自負しています。

「本で床は抜けるのか」(本の雑誌社)
yukanuke.jpg

どうぞよろしくお願いします。

もはや話を聞けない~南洋の古老の死について考えた

先週、末永卓幸さん一家の一時帰国に際して開かれた懇親会に出席してきた。
彼は長年、ミクロネシアのトラックに住み観光業を営んでいる平成の森小弁とも言うべき人物。
http://www.trukoceanservice.com/index.html
拙著「僕の見た「大日本帝国」」の南洋編は彼や彼の紹介してくれた現地の古老の協力なくしては書けなかった。
末永さんに訊いた。
「2003年に夏島を案内していただいたとき、現地の古老に思い出話をお聞きしたり、慰霊碑や海軍基地の跡を案内していただいたりしました。あのころに比べ、日本統治時代の痕跡はどのぐらい残っているのでしょうか」と。
「西牟田さんが来られたときのようにあちこち見て回ることはできなくなりました。あの頃のような取材は今、とてもじゃないけどできません。日本の心を持った古老たちが「どうぞ見ていってください」ってことで見て回れましたし、古老の話を聞くこともできたわけですけど、古老たちはみんな亡くなって代替わりしましたからね。
もともとトラックは私有地制度の強い場所です。地主が駄目と言えば絶対入れない。古老たちが亡くなり、息子たちの代になると、途端に「見るのならお金をよこせ」ってことで西牟田さんが来られたときに比べると入れないところが多くなりましたよ。
海軍の慰霊碑を守っていたテツイさんが亡くなった後はあそこにカバーを掛けてしまって遠くからでしか見られなくなりました。戦艦大和に乗り込んだ話や島の置屋の話をしていたルーカスも西牟田さんを案内してから4年後の2007年に亡くなりました。認知症になってすぐでした。現地人にしては長生きな方でした」
拙著「僕の見た「大日本帝国」」は2000-2004年の取材をまとめたもの。トラック以外にもサハリンや台湾といった場所でお世話になった方々の多くがすでに亡くなっている。あの本の魅力は織り込まれた多くの証言にあるのだとおもうが、末永さんの話を聞き、もう二度と同じような取材はできないんだと、改めて思った。

柳美里ギャラ未払い問題報道に古傷がうずく

柳美里ギャラ未払い問題が勃発して、古傷がうずいた。

『創』休載の理由

作家・柳美里さんとのことについて説明します。

2005年の新潮ドキュメント賞の選評で「文章が幼い」と切って捨てられたのを思い出したというのも一因だが、それは重要でははない。今年の春まで続けていた僕の結婚生活と問題の本質がそっくりだからだ。

全然儲かりはしないが大事なことに一生懸命取り組んでいるという自負心が僕にはあった。妻には家計の負担をかなりさせていて、申し訳ないと思いつつも、経済的なことはあまり考えないようにしていたのだ。そのせいもあって離婚に至った。妻や子をはじめ、妻側の家族や僕の家族。皆に迷惑をかけたことに対し、心からお詫びしたいと思っている。

「創」編集部の迷惑のかけ方は規模の差はあれど、問題の本質は同じだ。こうしたやり方は遅かれ早かれ破綻せざるを得ない。柳美里さんのカミングアウトは正当なもの。彼女の申し立てが致命傷になって廃刊に至ったとしても、彼女に責任はない。

「創」の篠田編集長は口先だけでなく、実際、罪の意識を強く感じているに違いない。それでもすぐに彼がギャラを払わないのは、それまで見て見ぬふりをしていた未払いから目をそらし続けすぎて、ギャラを払わなきゃという発想にならないからではないか。

実際、僕がそんな感じだった。家計をささえるべくもっと稼がなきゃ、と思いながらも、「血のにじむような思いで取材しているのだ。そこまでやって儲からないんから、妻も理解してくれているはずだ」と結婚中の7年間、勝手に思い込んでいた。妻らに家計負担の不公平を持ち出されたとき、「もう少し待って」とか言っておろおろするだけで、すぐにお金を作って妻に追加分の生活費を渡すようなことはしなかった。そのときもちろん贖罪意識はあった。だけど本業を頑張りすぎて、他の方法を使ってでも稼ごうという考えが浮かばなかった。

自分のことを棚に上げて言うのは気が引けるが、篠田さん、あなた甘い。甘すぎる!!! 柳美里さんの言うように篠田さんがギャラや経費を払わないことで、書き手の生活は圧迫されるのだ。離婚という「罰」を受け、再出発をはかっている僕のように、篠田さんも逃げずに「罰」を受け容れて、再出発をはかってほしい。タコが自分の足を食うようなやり方ではない、別の方法で仕切り直しをはかって欲しい。

     *

もちろん今回の一件があったからといって「創」を全否定する気はない。離婚前の僕がそうだったが、儲からなくても続けるという判断は苦しいし、惨めだ。それに回りに迷惑をかける。だから、よほどの信念・そしてバックアップがないと続かない。ノンフィクションが売れない状況の中、「創」はここまでよく頑張っているし、彼を応援している人たちの心意気は見上げたものだと思う。「創」のような雑誌がなくなっていき、反韓反中ばかりやる差別的なメディアが残っていくことはなんとか避けられないか。そんな風にも思う。

それにしてもこの問題に対してのかさこ氏の学級委員的な身もふたもない指摘はゴミすぎる。

号泣という言葉にふさわしい泣き方

号泣という言葉は本来「大声を上げて泣く」という意味なのに、江國香織の『号泣する準備はできていた』が出版されてからというもの、泣くという動作=号泣と一緒くたにされて使われるようになった。しくしく泣いたり、さめざめ泣いた場合も号泣、果ては涙を流していない嘘泣きですら号泣とされるようになっていたように思う。そんなわけでは、常々、言葉を貧困にする号泣という言葉の使われように辟易していた。

ところがだ。野々村竜太郎県議の泣きっぷりを映像でみて、失笑するとともに、満足感のような感情が浮かんできた。というのも文字通り、号泣している場面を久々に見ることが出来たからだ。

記憶の糸をたどると、これほどの泣きっぷりって、金日成が亡くなったときに登場した泣き女を映像で見て以来のことじゃないだろうか。

野々村県議の泣きっぷりが話題になるのを契機に、号泣という言葉が本来の使われ方をするようになりますように。

集団的自衛権行使反対という論調にもやもやする

集団自衛権の行使に対し反対する気には単純にはなれない。
反対論が新聞やブログやらが噴出してるけど、どれも似たような論調で、鼻白む。どれも正論には間違いないが、なんだか納得がいかない。もやもやする。

戦前の国体が天皇による統治なんだとすれば、
戦後、それに当たるのは、日米安保と平和憲法か。
それは2つで1セット。

「戦後」という体制が60年以上もの長きにわたって続いてきた。そのことをどのぐらいの人が認識してるんだろうか。

1952年以降、この国はサンフランシスコ体制、つまりアメリカの属国だった。実質的な植民地だからこそ、防衛に力を入れなくても良かったし、平和憲法を守ることができたってことだ。

とすると、集団的自衛権に手をつけるのをとっかかりとして最終的に9条を廃止することで、半植民地的な地位を脱却できるんじゃないか――。そう思えるのも事実。

高齢化社会となり、国力がどんどん下がってきている。そんな閉塞感あふれるいま、「平和憲法は日本の宝」とかそんなお題目を唱えても、若者にはあまり通じないだろう。閉塞感打破の足を引っ張る守旧派と見なされるのがおちなんじゃないだろうか。

だけど一方、平和憲法を無効にしていくようないまの動きに違和感を覚えてしまう。実際、アメリカの戦争に巻き込まれたり、危険地帯でNGO活動をしている人たちが狙われやすくなったりするに違いない。平和憲法を持ってるが故に、特異な国として、国際的に認知されている。その良さを消してまで、改憲へ進んでいくというのはもったいない。自殺的とすら思える。

じゃあ護憲と改憲、どちらがいいのか。というと正直なところ、よくわからない。

もやもやするのは何も、あふれかえる正論にだけではない。
政府によるこれといった説明がないまま、なし崩しに手続きが進められていくこと。
安倍さんにしても言ってることが上っ面すぎてまったく納得がいかないこと。
卑怯だ。まったく。国民を馬鹿にするなって感じ。

ロマンスカーに乗って不安になる

JR御殿場駅に乗り入れている小田急ロマンスカー。向かい側ホームに停車したJRから乗り込む前に特急券を買おうとホームを見渡す。しかし券売機は見当たらない。一度改札を出て探してみるも特急券の券売機はない。あるのはJRの緑の窓口だけ。
窓口で聞けば良かったのだけど、この時点で出発まであと2分。スイカで入場しそのままロマンスカーに乗り込んだ。車内は空いていた。全席指定だったが、車掌に言って特急券を買うつもりだった。
15分か20分ほどで次の新松田。10人ほどが乗り込んできて、そのうちの一人が言った。「ここなんですけど」
僕の席だという。素直に席を立ち、反対側へ。出発してもまだ車掌は来ない。読書を中断されたが仕方ない。少し落ち着かない気持ち。
そしてまた15分ほど。秦野駅。30ぐらいのセクシーな女性がちらちらとこちらを不安そうに見ている。どうやら僕が座っている席に指定されているらしい。またかよ、早く車掌こい。少しいらつく。と同時にこのまま何も言われずに放置されるんなら特急券代払わなくて済むよなあと気がつきもする。
秦野を出たところでようやく車掌が来た。
ちらちらと車内を見ただけで去ろうとするので、呼び止めた。
「御殿場から乗り込んだんですけど券売機がなかったし時間がなかったのでそのまま乗りました。特急券を発券して欲しいんですけど」
「乗車券はどちらで」
「スイカで入場しました」
「でしたら降りた駅で精算して下さい」
そう言って車掌は去って行った。
その後も駅ごとに席を立つ羽目になった。中にはこいつキセルしてるやろ、というまなざしで見てくる人もいて、なんだか自分が罪を犯しているような気にさせられた。新宿の手前の新百合ヶ丘ではスマホを片手に乗り込んできた20才ぐらいの女性が僕の席を指さした。
これ以上、席を立つのも面倒くさかったので、デッキで立ってすごした。
そして新宿駅。窓口で事情を説明する。特急券が買えないまま来た、と。
乗車券代と特急券代をそのまま請求してくるので、僕はイラッとする気持ちを抑えながら言った。
「指定を受けられなかったので、席を転々とさせられたあげく、キセルじゃないかって目で見られ、嫌でした。指定席代は減額してもらえませんか」
「満席でなくて良かったですね。特急券は指定席代と分けることができないのでそのままお支払いいただきます」
僕は「こんなんならバカ正直に言わなきゃ良かった」と負け惜しみを言って2870円を払った。
似たようなことはおそらく毎日起こっているんだろう。御殿場駅で特急券を買おうとしても買い方はわからないし、買っている時間もないもの。全席指定というのはキセル対策なのかもしれないが、切符が買えないばっかりに、早くて快適なはずの特急に乗って、こんなに不安にさせられたことって初めて。乗り入れで生じるエアスポット的な問題にはまっちゃったらしい。

韓国でフェリーが沈没したことについての雑感

韓国でフェリーが沈没し、200人以上が行方不明だという。安否が心配だ。あのあたりを航行する船には2002年、韓国一周旅行のときに乗ったことがある。有明海のような遠浅の浅い海が広がっていて、ダイビングで潜っていけるほどの水深しかない。沈没した船の中の空気だまりに逃げた乗客が生きているのではないか、と報道されるのは、助けられるぐらいの浅い海に船が沈んでいることを意味してるわけだ。
沈んだのは鹿児島~那覇間で使われていたかつての「フェリーなみのうえ」。この船には2001年5月下旬に乗っている。奄美大島の名瀬から徳之島までの3時間だったと思う。気になって発掘した過去の日記の日時とネット上に残ってた運行スケジュールが一致したので間違いない。
荷物満載の原付カブでランプウェイから乗り込んで、二等船室で雑魚寝した。コンパクトにまとまっていたが船内設備はしっかりしていた印象の船だった。
その後、韓国に売られていたことは事故の報道で知ったが、特に驚かなかった。というのも韓国で似たような船に何度か乗っているからだ。一回は仁川から中国の大連までの国際航路で、かつてのさんふらわあ(だったはず)に乗ったことがある。あちこちに日本語の表示が残っていて、日本船の払い下の船だということ、日本船が韓国や中国といった近隣国で第二の活躍をするというルートがあることをそのとき知った。
払い下げといえば、竹島上陸用の船もそう。鬱陵島から「独島」までは鈴鹿で作られたかつての日本船だった。韓国人のナショナリズムの強さを象徴する島へ行く船が日本からのお下がり。その事実に思わず苦笑した。

Appendix

プロフィール

PEREZVON(ペレズヴォン)

Author:PEREZVON(ペレズヴォン)
西牟田靖(ニシムタ・ヤスシ)
1970年大阪府生まれ。神戸学院大学法学部卒業後、フリーライターになる。近年は旅・現場・実感にこだわるノンフィクション作品を発表し続けている。著書に『僕の見た「大日本帝国」』(2005)、『誰も国境を知らない』(2008)など。NPS(Nikon Professional Services)会員。
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近年、ノンフィクションライターと見なされることの多い西牟田靖のブログ。手間をいとわず、自分の好奇心に忠実な仕事をしていきます。

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